2010年 07月 07日 ( 1 )

「吾輩はメグ博」じゃ②

・・・これは「自動車の社会的効用」学習院大学教授香山健一先生の貴重な記述である・・・
 敗戦直後の昭和22年、我が国の一人当たりの国民所得は僅か34ドルであった、この時期の日本人の暮らしの中での最大関心事は、言うまでもなく如何にして飢餓を乗り切るか、いかに生き延びるかと言うことであり、そのための食糧確保であった。
 日本人全体が飢餓線上をさまよっていたこの時期において人々の最大の問題は衣食住の中で取りあえず食を確保する事であったことはには間違いない、この時期国民の「夢は」とにかく「銀飯を(白米のご飯)腹一杯食べたい」と言うことであったと言っても過言ではない。
 昭和20年代前半の学校生活において食糧難と栄養失調が大きな問題であった、現在(’75年)の学校教育の場では、栄養過多と運動不足による肥満児対策が大きな問題になっている、これから考えても如何に食生活の変化が大きく変わって来たことがお解りであろう。
 加えて昭和25年には一人当たり国民所得123ドル20年代後半には問題であった食糧難の問題は次第に解決に向かい、本来の衣食住の衣生活の改善も考えられるようになって来たのである。
 我が国においてナイロン生産が開始されたのは昭和26年、当然ナイロン製のワイシャツやストッキングが暮らしの中に登場してきたのである、昭和30年日本人の国民所得がようやく200ドル、昭和35年に300ドル昭和40年代にはナナナント700ドルにたしていったのである。
 ここでメグ博の思い出終戦の時、紅顔の美少年はまさに12才イヤー食べるものなんか「いものツル」のおすまし、ご飯はヒエご飯(コゲがメチャ美味い)それだけ、時たまくれる麦飯のおにぎりの美味かった事、今の青少年にこんな話は通用しない、ワカルカなー腹が減っていたら何を食べても美味しかったのである、終戦一年目V028に(船じゃ)乗せられて、何しろ一人子供も大人も千円しか持たしてくれない(確か俺のジャンバーに何千円か縫いこんでいた様子であった(無茶をする両親である)V028は何日か揺られて「博多」日本国ですぞに到着それぞれチリジリに散ったのであった。
 吾輩は、親父の知り合いを訪ねて神戸の南京町に着いたのが22年暮れ、神戸の大倉山にあった引揚者住宅に住みつき第3中学校から長田高校へと進んだのであった。
 イヤー苦労したぜと言うところかなじゃ、ここらからは年齢も若く思い出も多々ご披露出来るぞ「ナモシ」・・・
・・・今日はここまでおわり
 
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この写真は、吾輩が川崎重工業㈱単車事業本部のワークスライダー???、の時、六甲山縦断タイムトライアル+MXレース(3人1チーム)で2位になった時の物である、マシンは500型・600型だったヨン~
下にあるのは、スタートの時チェッカーでスタートとは?お笑いであるのじゃ、ヘルメットもなしじゃ
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by hyogomeguro | 2010-07-07 17:44